義務教育では伝えきれない【イタリア共和国】混沌とした歴史を見てくれ

お勉強
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皆様こんにちわ、蝦夷パパです。今回も歴史をまとめていきますよ!

 

今回は世界の国シリーズ、16カ国目は【イタリア共和国】です。

混沌とした歴史をもつイタリアです、しっかり腰を据えて見て下さい!

それではご覧ください〜

 

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基本データ

国名…イタリア共和国(漢字表記:伊太利共和国)

首都…ローマ

公用語…イタリア語

人口…6046.2万人(愛知県約8個分)

国土面積…30.28万km2(岩手県約20個分)

国民食…パスタ料理

 

それでは本題へ行きましょう!

 

国の始まり

※イメージ

 

紀元前27年…オクタウィアヌスによるローマ帝国が始まる、西暦2世紀の五賢帝時代には安定し領土も最大になった。

オクタウィアヌス…ローマ帝国初代皇帝

五賢帝時代…有能な5人の皇帝が古代ローマを支えた時代、ローマの平和とも呼ばれた。

でけぇです、五賢帝って中2臭くて好きです。(元の白地図:CraftMAPさん)

→しかし、領土拡大による支配力の低下などにより、徐々に衰退しちゃう。

395年…それゆえローマ帝国は東西に分裂しちゃう。

476年…ゲルマン人・オドアケルにより西ローマ帝国は侵入される。オドアケルは東ローマ帝国に服従していた。

ゲルマン人…インド=ヨーロッパ語族の共通の祖先

493年…ゲルマン人一派の東ゴート人・テオドリックが東ローマ帝国の要請でオドアケルを暗殺、東ゴート王国を建設した。

555年…しかし、東ローマ帝国によって東ゴート王国は滅ぼされる。一時的に東西時代前の領土に戻る

東ローマ帝国なんでもありです

568年…ゲルマン人一派のランゴバルド人が東ローマ帝国が支配しているパヴィアにランゴバルド王国をゴリ押しで建設する。

パヴィア…北イタリアにある都市、現在もある。

751年…ランゴバルド王国はイタリア半島の統一を目指して、東ローマ帝国の総督府が置かれていたラヴェンナを侵略する。

→このとき東ローマ帝国はギリシャ地域のコンスタンティノープルに総督府を移しました。

総督府…役所、本部みたいな意味

コンスタンティノープル…現在のトルコにあるイスタンブール

→ローマ教皇はゲルマン人一派のフランク人のフランク王国に助けを求める。

ローマ教皇…ローマカトリック教会の最高指導者で聖職者の最高位、キリスト教です。

フランク王国…拠点は現在のフランスの位置

756年…フランク王国のピピンはラヴェンナを取り返し、ローマ教皇に渡した。これを「ピピンの寄進」といい、最初のローマ教皇領となった。

ローマ教皇領…キリスト教のローマ=カトリック教会の頂点に立つローマ教皇が支配している土地のこと

774年…フランク王国はランゴバルド王国を征服する。その後、北イタリアはフランク王国の一部となる

ここらで位置関係を確認しましょう〜(元の白地図:CraftMAPさん)

843年…フランク王が亡くなってから、子ども達に東・中部・西の3分割にして相続させる、ヴェルダン条約と呼ばれる。

870年…中部を担っていた子どもが亡くなったあとに、中部を東西に割り振り、残ったところをイタリア王国とした。

→この割り振りが現在のフランス・イタリア・ドイツの原型となった。

やっとこ、見覚えのある形になりました。(元の白地図:CraftMAPさん)

ここから、話の中心は中部フランク=イタリア王国になります

11〜13世紀…ローマ教皇は十字軍を発足させて、周辺地域に圧力をかけたり、都市の繁栄に繋がった。ドイツからの侵攻も食い止めました。

→この辺から内外勢力が入り込み、北イタリア・中部イタリア・南イタリアに分裂して、とってもなが〜い分裂時代に突入する。

十字軍…キリスト教に情熱を燃やした集団。また、キリスト教の為の聖地エルサレムを目指して軍事活動した集団。

14世紀…芸術の運動「ルネサンス」が始まった。ルネサンスとはギリシャ文化・ローマ文化の”再生“という意味がある。

→東ローマ帝国はラヴェンナを占拠されたあと、コンスタンティノープルに移りました。(おさらい)

→ここはギリシャ地域だったので徐々にギリシャ色が強くなった。7世紀頃には「ビザンツ帝国」と呼ばれる。

ビザンツ帝国…コンスタンティノープルのギリシャ時代の名称のビザンティオンから来ている

→1453年…オスマン帝国に攻められてビザンツ帝国は敗れる、このときギリシャの学者芸術家がイタリアに亡命した。

→そしてイタリアで文化を再生しようとなったのが芸術の運動「ルネサンス」となった!!

お待ちかねのポンチ絵です、確認しましょう〜 (元の白地図:CraftMAPさん)

1494年…イタリアの分裂を見かねて、フランス・スペインから侵入が度々起きる、イタリア戦争がはじまる。

1559年…スペインのフェリペ2世がイタリア戦争を終結させる、ここからイタリアの大部分は実質的にスペインに支配される。

1701年…スペイン継承戦争が起きる、オーストリアがスペインと激突する。北イタリアが舞台となったので、またイタリアは混乱の渦に巻き込まれる。

スペイン継承戦争…王位を狙った争い。(ちょー複雑なのでググッてください、すいません)

→そして次はオーストリアに実質的に支配される。

→スペイン継承戦争の際にオーストリアに協力したサヴォイア公国はスペインが支配していたシチリア島をゲットする。

→その後、オーストリアがスペインから奪ったサルデーニャ島シチリア島を交換する。サヴォイア公国からサルデーニャ王国として再スタートする。

→このサルデーニャ王国がイタリア統一のカギを握ります。

位置関係を確認しましょう〜 (元の白地図:CraftMAPさん)

1797年…フランスからの命令でナポレオンイタリア遠征を行った。オーストリアから北イタリアを奪い取り、チザルピナ共和国をつくり拠点にした。

 

ナポレオン
ナポレオン

皆さん!イタリア独立までもう少しです、頑張って付いてきてください!パカラッパカラッ

 

1800年…ナポレオンは二度目のイタリア遠征を行う。

→イタリアからオーストリアから排除する。フランスがシチリア島とサルデーニャ島を除いたフランスはイタリアを支配する。

1802年…チザルピナ共和国をイタリア共和国に変更する。

1805年…イタリア共和国からイタリア王国に変更して、ナポレオンは国王となる。

→イタリア人は国境線や国名がたびたび変わったため”自分が今何という国に住んでるか分からない“状態になっていた。

→ナポレオンは自由と平等をモットーとしたフランス革命の精神でイタリアを良い方向に持っていこうとする反面、イタリアをフランスに組み込もうとしている側面もあり、イタリア人は強く反発した。

1815年…ナポレオンは国王になった後もロシア遠征やイギリスとの戦争を行ったがうまく行かず、没落する。

→ヨーロッパの各国は「ナポレオンにしてやられた前に戻しましょうよ」と国際的な取り決めとしてウィーン会議を行った。

→この会議はオーストリアのメッテルニヒが議長ということもあり、何だかんだでオーストリアがイタリアをまた支配する。

メッテルニヒ…オーストリアの外相、後に首相

→このときサルデーニャ王国だけ独立性が保たれていた。

1831年…自由と立憲政治を求めたイタリア反乱が起こるも、オーストリア軍に鎮圧される。

→しかし青年イタリアを結成して、イタリア統一運動が始まる。

青年イタリア…オーストリアからの独立を目指した政党

→運動は失敗したがその思想は、その後のイタリア統一に指導的役割に繫がる。

1848年…ヨーロッパ各地で自由主義と民族主義を求めた運動が強まり、保守派のウィーン体制は崩壊する。

→イタリアでもミラノとヴェネツィアの市民が蜂起し共和制を宣言する。サルデーニャ王国も支援したがオーストリア軍にやられる。

1853年…サルデーニャ王国のカヴールはクリミア戦争に参加する事を決める。直接的な利益は無かったがナポレオン3世のフランスに協力しロシア軍と戦う。

カヴール…サルデーニャ王国の首相

→ナポレオン3世の信頼を得ることができ、戦後の国際会議でサルデーニャ王国の国際的な地位を高めることに成功する。

→その後ナポレオン3世に協力を願ってイタリア統一を目指すが途中で裏切られる。カヴールはイラつくが我慢する。

→影響力を強めるためにサルデーニャ王国の首都をイタリアの中心にちょいちょい移動させる。

1866年…カヴールはプロセイン王国に協力してオーストリアと戦争をする。これによりヴェネツィアを奪還する。

1870年…プロセイン王国とフランスが戦争をしフランスが劣勢になりローマ駐屯軍が撤退する。イタリア軍はこのときにササッと奪還する。

→これによりイタリア王国として統一を果たしました。

※ローマ教皇はイタリアは嫌だとごねます

※ローマ教皇絡みで一部のイタリア人は併合できませんでした。

 

すーんごいバラバラなところから何とかイタリアが統一したので、ここからは王国から共和国になるまでを早送りで行きたいと思います。

 

→第一次世界大戦に参戦

→勝つけど国民に国のダーティなところ見えちゃう

→国内反乱

→荒れたまんま第二次世界大戦に突入

→ダメダメで戦敗

→国王一族は追放される

→1946年に国民投票により共和制が指示されて「イタリア共和国」が爆誕する。

 

ここまで読んでくれた方はいるのでしょうか?こりゃあ、複雑過ぎて授業で触れれないですよね。笑

 

 

 

 

最後に

イタリア共和国は中々の入り混じった歴史をお持ちでした。

正直、簡単には理解できないかと思います。

僕は何となく理解を進めつつ書きましたが、前半のことはもう覚えてません。

もし分かりやすいと思ってくれた方はTwitterからいいね下さい、すごく嬉しいです。笑

  

これにて16 ヵ国目【イタリア共和国】を終わりとします。

興味が湧きましたら嬉しいです!

ご覧頂き有難う御座いました

 

 

↓大変参考にさせて頂きました!

イタリアの歴史 – Wikipedia

イタリア – 世界史の窓

イタリア史とは – コトバンク

※掲載している情報は記事更新時点のものです。

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